はっと、起きた。夕香は体を起こし背筋に走った痛みに顔をしかめた。変な体勢で眠っ
ていたからだろうか背骨が痛かった。背筋を伸ばすと痛いほどの音がなり、伸びをしよう
と手を上げたが手を握っていたという事を思い出して伸びは背筋を伸ばす事だけにした。
 目元がひんやりとしていた。片方の手を離して目元を拭ってみると涙を流していた。
「なんだかなあ」
 涙を拭うとふと握った手を見た。ごく僅かだが握り返されていた。血の気の戻ってきた
冷たい指先はしっかりと自分の手を握り返していた。
 眠る月夜をみて、ふっと笑った。じっと見てみることがなかったからだが童顔だった。
眠っているからかもしれないなと思いながら高校生とは思えない幼い顔にクスリと笑った。
「どれぐらいたったかなあ?」
 呟くと月夜の額にある布をすすいで絞りそっと額に置いた。大分熱は下がったようだ。
汗もそんなに滲まずにただ眠っていた。
「インフェクション」
 口に出してみた。その言葉が感染を意味していると気付いたのはかなり後なのだが、な
んとなくそれっぽいと思った。
 やることも無くただ月夜を眺めていた。手を離し食事を作ることにした。たいしたもの
は出来ないのだが月夜のための粥と自分のご飯を作った。月夜はまだ起きてないのだが起
きたときに暖められるようにと釜の中に入れておいた。
「一人ね」
 食べながら思った。一人には慣れている。慣れてなければここまで生きてないだろう。
「短気が災いしたんだよね、今回は」
 昏々と眠り続けている月夜を見て深くため息をついた。今回は本当に危なかった。我な
がら短気すぎるのは止めようと深く思った。
 がばりと音がした。荒々しい息遣いも同時に聞こえ月夜のほうを見ると後ろでに手をつ
き、息を整えてキョトンとした表情で見回していた。
「日向? ここは?」
 静まった息で深く息を吸うと深く吐いた。胸に手を当ててキョトンとしている。
「天狐の里よ。あたしのへまで瘴気吸わせちゃったからその解毒のためにここに滞在」
「……そうか」
 やっと記憶が戻ったようで静かに頷いた。怪我が治っていることに気付いて不思議そう
な顔をしたが、溜め息をついた。
「…………その、ごめん」
 長い沈黙を経て夕香はそれだけを何とかつぶやいた。月夜は驚いた様子でいたがやがて
穏やかに首を横に振った。
「いいや」
 立ち上がろうとする月夜はそう言うと布団から出た。
「藺藤?」
「顔色が悪い。休め」
 それだけを何とか呟くと月夜は壁に寄りかかった。貧血で目元が眩み寒かった。
「藺藤こそ、休んでって。倒れそうだよ」
「別に良い。天狐の姫に何かあったら俺は殺されるだろう。だから」

明かしては無いその事実に目を見開いて驚くと、胸の奥底で浮き上がる言葉があった。
《こっちこそ悪かった》
 その声は確かに月夜の声で聞こえた。それにまた驚くとそっぽを向いてなぜか寂しげに
微笑む月夜がいた。
「……二度目だ。インフェクション。トレースという所か」
 そう呟くと深く溜め息を吐いた。口元に浮んでいた笑みを殺して夕香に見る。
「ここの滞在はいつまでだ?」
「とりあえずあんたが動けるようになるまで。明日明後日中には発つ」
「そうか」
 静かに頷くと目蓋を閉じた。瘴気の毒が無いとは言えども体力を限界まで削いだらしく
動く気がしなかった。
「粥、食べる?」
 釜に火をかけた夕香がたずねる。とても食べる気にはなれなかったが食べないと明日明
後日中に発てないだろうと判断した月夜は食べるとだけ答えため息をついた。
「はい」
 質素な器に入った粥は湯気を立てていた。受け取って箸でそれを口に運ぶと淡い塩味が
舌に広がった。元々薄味が好みである月夜は食べやすいなと思いながら黙々と食べていた。
夕香も再開して黙々と二人で食べた。向き合って物を食べる二人の間には不思議な沈黙が
あった。
 冷たくは無い沈黙。今まであったのは冷たい沈黙だった。何処か違う、強いて言うなら
ば温かい沈黙。何かがちがう。
 沈黙にも表情があったのかと月夜は思う。ふと夕香に目を向けると涙を流していた。
「日向」
「え?」
 自分がどうなっていたか気付いてなかったらしく箸を置いて手の甲で涙の筋を撫でる。
「なんで?」
 頬を押さえて涙に触れる。涙は瞳から溢れ手を伝って落ちて行く。月夜は、一つ息を吐
くと夕香の頬に手を伸ばした。冷たい涙が指先を濡らす。それを拭ってやるとそっと頬を
包み込んだ。
「藺藤?」
「何故、そんなに涙を流せる?」
 その問いに目を見開いた。その拍子に涙がまた溢れる。月夜は痛々しいほど無表情だっ
た。否、虚ろだった。
「何で、そんなに?」
 ただ苦しげな問いに答えられずに夕香は涙を流し続けていた。月夜はそれ以上何も言わ
ずに俯いていた。夕香の頬に当てた手はそのままで夕香が泣き止むまで。
 そして、明くる日、月夜は、天狐の里の長老に挨拶に行った。
「失礼します」
 右腕が動き出さないのが不思議だったがそれには集中せずに部屋を取り巻いている荘厳
な神気に緊張して正座をして一礼した。
「蒼華が連れてきたのは主か。この馬鹿者がした失態でずいぶんなことにしてしまった。
すまなかったな」
「いえ、たいした事は無かったので」
 いくらか緊張に霊気を飛ばしている月夜にどつきたくなったが元はといえば自分が起こ
したことだからとその気持ちを自制して夕香は長老をみた。
「名は?」
「藺藤月夜と言います」
「かの藺藤一族の末裔か」
 はいと頷くと夕香にちらりと視線を向けてどうしようか迷ったそぶりを見せた。それを
見て夕香は静かに退室した。
「あやつには聞かせたくは無い様だな」
「俺は、直系です。ですが、一族とは干渉してません。ですが、俺の一族がやって来たこ
とも全て知っています。長でもない俺が謝罪しても意味が無い事は知っています」
「私は謝罪を求めない。ただ、危険だから止めて欲しいのだ」
 その言葉に月夜は視線を下げた。月夜の藺藤一族は、宗家就任の際、狐の血を飲む。そ
れは儀式的な意味もあるが宗家の力を強めるものでもある。狐の神格が高ければ高いほど
力は強まる。だが、体に見合う力でなければ体は滅びる。そのことを長老である外見が若
い狐は言った。
「分かっています。一族の連中は俺を宗家として就かせたいと思っているのでしょうけど
俺にはその意思がありません。憎き狐の血を啜る事は出来ません」
 その最後の言葉に長老の目つきが変わった。それをチラリと確認して月夜は深くため息
を漏らした。
 


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